ネットおそろし

5月あたりから、若干インターネット情報に食傷気味…いや、食傷という言葉は間違ってるな。"溺れ気味"が正しいかな。うまく付き合っているつもりだったんだけどなぁ。

我が家はテレビを置いていないので、不要な情報が垂れ流しに入ってくることはないものの、逆にPCやスマートフォンで情報を取り過ぎてしまうことがあります。そうすると、情報に溺れてしまう。強い意志と判断力が無い時には、ちょっとインターネットとは距離を置いて付き合った方がよさそうです。

Facebookでは、いま私のタイムラインに流れてくる情報の約半分が安保法案、原発関連、医療ネタ(もちろん流れてくるように自分が設定してるんだけど)。そうすると、とんでもなくシリアスな情報と、ものすごくライトな情報がいっしょくたに流れてくる。それってけっこう頭が混乱するし、ブルーになることがあります。例えば、「マーガリンは毒だ、マーガリン食べるなんてありえない」という投稿の直後に、仲の良い友人が「今日はマーガリンでケーキを焼きました」とか投稿してたら、けっこう切ないですよね。。。(←あくまで例えです。)
あと、ネット上でホントつまんない文句言ってる人を目にしたりすると心がとっても疲れる。常日頃から、そんなものには振り回されないような人間になりたいと思っているのに、まだまだ思いっきり振り回されるんだなー、と残念な気持ちになります。ま、振り回されてる間は、私も同じレベルということです。意味不明な投稿をしてる人にイラっとするのは、私が自分の常識から外れたものを排除したい気持ちが強すぎるから。学歴詐称してる人を見てイラっとするのは、私も学歴コンプレックスだから。そういうことに気づいては、また一層疲れる日々。
ま、見なきゃいいって話で、だからこそ最近は距離を置いているんですけどね。いや、ほんと、まいっちゃう。

村上さんのところ


「一般から広く募集した質問・相談に、村上春樹さんが返事を書くというやりとりを期間限定で公開するサイト」"村上さんのところ"が、もうすぐ終了します。数ヶ月にわたって本当に楽しませていただきました。かく言うわたくしも、質問を取り上げていただきましたよ〜ぱちぱち。ま、それは実にクダラナイ内容のものだったので、ここには載せませんけども。
私はおそらく全ての投稿に目を通したと思うのですが、その中で最も自分のハートにぐっときたものについて書いておきたいと思います。
…………………

村上春樹氏の『アンダーグラウンド』は、地下鉄サリン事件の関係者へのインタビューに基づくノンフィクション。投稿者の女性は、その本に登場する1人の地下鉄駅員が、「自分はサリン事件の被害者ではなく、体験者だと思うようにしている」と述べたことについて、自分自身に起きた"不運な体験"を織り交ぜて村上氏に質問を投げかけた。

自分を被害者だと強く思っていた時期は、世を恨み、相手を恨み、卑屈になって、人も離れていきました(なんで自分ばっかり、とその頃は思っていたのですが、実際には、自分ばっかりではなくて、みんないろいろあるんですよね)。そのようにして自滅していくのかな、と。なんだかうまく言えなくて、すみません。相手も悪いところがあるし、自分も悪いところがあったな、と考えられるようになってから、ちょっとずつ元気になっていきました。村上さんは、その駅員さんはなぜ被害者ではなく、体験者だと考えるようにしていたのだと思いますか。

村上氏の回答がこちら。

被害者というのは一般的にいえば、「自分には何の責任もないのに、たまたま災難が降りかかってきた」という人のことです。だから「どうしてこの私に?」という疑問が先に立ってしまいます。それで深く混乱し、傷ついてしまうこともあります。でもその駅員さんは自分を「被害者ではなく体験者」と見なすことによって、「自分はこの世界に生きているという責任を、たまたま自分なりに分担したのだ」という風に、いわば前向きにお考えになろうとしたのでしょう。僕はそのように解釈しています。それは「災難が降りかかってきた。ひどい目にあった」と受動的に捉えるか、「心ならずもではあるが、自分が災難を引き受けることになった」と能動的に捉えるかの違いだと思います。

私はこれを読んだとき、深呼吸をして目を閉じ、そのことばを深く味わった。それは、私の人生への向き合い方に、とてもよく似ていたから。私はずいぶん前から、「自分にふりかかる出来事には、必ず自分にも責任の一端がある」と考えるようにしている。それは、なにか"理不尽な目"に遭ったとき、「自分は全く関係ないのに、◯◯のせいでこうなった!」とは思わず、その一部は自分の責任だとして受け入れる、ということだ。これを半ば宗教的といってもいいくらいに心の軸足としている。以前は「そうは言っても、果たして自分の家族や友人が通り魔に刺されたりしたら、そんな心境でいられるだろうか? 」と自信がなかった。しかし結果として、「なんで私がこんな目に遭わなければいけないの…」という経験をいくつか経た今となっては、自信を持って言える。やっぱり、私の世界で起きる出来事には、すべて私にも責任があるのだ、と。なんで? と聞かれても困る。自分の様々な経験を通じて、いろいろな本を読んで、最もしっくりきた答えがそれだったというだけだ。身内が事故に遭ったときも、一貫して「加害者を恨むのはやめよう」という態度でいた。それは泣き寝入りをしたという意味ではなく、感情にまかせて自分を失ったりせず、自分の所属する世界で起きた出来事として受け止め、冷静に対応したということだ。「そんな心境でいられるなんて、えらいねー」と言う人もいたし、「なんと冷血なヤツなのか」と思った人もいたと思う。「我慢しなくていい」と言ってくれた人もいた。でも、人より偉いわけでも冷たいわけでもなく、恨みや悲しみを飲み込んで我慢したわけでもない(実際、十分すぎるほど悲しんだし、涙も流した)。自分にふりかかる出来事には、必ず自分にも責任の一端があるという前提で行動した。それだけだ。
世の中で起きているいろいろな問題についても、同じことだと考えている。わかりやすいところで言うと、たとえば原発についてなにか語るなら、まずは、自分も原発を持ってしまったこの世界の一部であるという意識をもつこと。「原発なんて自分の知らないうちに勝手にできていた」という無責任なことは、言わない。自分の属する世界で起きていることは、すべて、自分にも責任があるのだ。そういう風に考えると、いろいろなことに対して、比較的冷静に、客観的に対処できるようになってくる(ような気がしている)。

人生には、ひどいことがいろいろと起きるけれど、そういう経験は実にいろいろなことを教えてくれる。「被害者ではなく、体験者」という姿勢で生きることは、自分にとっても、人類にとっても、地球にとっても、なかなか悪くないことである、と私は思っている。

しっかりした企業にお勤めの…

子どもというのは、いくつになっても親からの評価が気になるもの?それとも、私だけでしょうか。
私は子どもの頃、親(とくに母)から褒めてもらえない、認めてもらえない、と感じて育ちました。それは、母が「nacciは英語はすごくできるのに数学がダメだねぇ」とか「この通知表、体育さえなければ完璧なのにねぇ」とか言ってしまうタイプだったからです(体育は2だった)。もちろん母に悪気があったわけではなく、母なりに褒めていたんだと思うのですが、私はどちらかと言うと褒められて伸びるタイプだったので、「お母さんは何をやったって褒めてくれない」とずっと思っていました。その想いは、大人になっても間違いなく私の心の中にあって、結婚相手も母が文句を言わないような人を選ばなければ、というのが無意識のうちに自分に刻み込まれていたようです。それは今になって「そうだったな」とわかるだけで、その渦中にあるときは母の影響をそんなに受けているとは思っていませんでしたけど。
母が文句を言わない相手─それは、『しっかりした企業にお勤めの』男性です。折にふれ、「◯◯ちゃんの旦那さんみたいな人と結婚するのが一番いいのよ」なんて言われていました。
しかし結果として私が結婚することになったのは、"しっかりした企業にお勤め"とは真逆のところにいるような…たった1人で、自分の腕一本で世界と戦っているような人で。「あー、お母さんが生きてたら、『えええええ!』と言うだろうなぁ」と思いましたよ。そう、"しっかりした企業にお勤め"であれば、たとえ病気や怪我で仕事ができない時も、あるいは仕事なんてしないでサボっていても、お給料が自動的にタップリ入ってくるわけですから、母の言いたいことはよくわかる。でも、私が選んだ相手がそうじゃなかったんだから、仕方ないですよね。幸か不幸か、母はそれを伝えられる前に亡くなってしまったので、「えええええ!」と言われる機会もなかったわけですが。

で、そういう人と結婚したいと思っていることを父に伝えるにあたり、「きっといろいろ聞かれるだろうな」と覚悟していました。"将来設計"とか、あれとかこれとか、ちゃんと考えてあるのか、と。ところが、父は何も言わなかったのです。「自分で選んだ相手なら、お父さんは何も言うことは無い」と。私はびっくりすると同時に、非常に深い感動に包まれました。当の父は、感動させるようなことを言ったなんて思ってないでしょうけど、私としては、自分の選択を、意志を、そのまま認めてもらえたのがとてもとても嬉しかったのです。父の意図するところは、「自分で選んだんだから責任持てよ、後から大変だとかあーだこーだ言うなよ」ということにすぎないのですが、それでも、私はずっとそういう風に、自分の選ぶもの、ひいては自分自身を、受け入れてほしかったんだと思います。母親に。でも、母親というものは、おしなべて"子どもが苦労しないように"って思ってしまうものなんでしょうね。私は、苦労=悪いことだとは思わないし、"しっかりした企業にお勤め"=苦労がゼロ、とも思いません。そして、親がどんなに願ったところで、子どもは苦労するのです。選択を誤ったり、つまらない失敗を重ねて大人になっていくんです。だけど、母親というものはなるべくそういう目に遭わないように…と先回りしてしまうんでしょうね。「結果がどうであれ、自分の選択に責任を持って、好きなようにやれ」と言えるのは、父親ならではなのかもしれません。

そんな具合で、どうなることかと気を揉んだ「夫になる人を父に会わせる」というイベントは、何の問題もなく終わったのでした。考えてみれば、父も自分の腕一本で自営業をやってる身ですから、今思えばそんなに心配することはなかったのですが。父は夫に対して、何の注文もつけませんでしたが、唯一言っていたのが「まだご存じないかもしれんけど、ウチの娘、めちゃくちゃ気が強いので、覚悟しておいてくださいね。返品はダメだよ」くらいでしたね。気、強くないですけどね、ワタシ。

ブライダル産業の抱き合わせ商法


ドレスでは様々な問題を抱え込んだ私でしたが、一方で"本当によかった!"と思えたこともあります。それは、自分がいつも行っている美容室の、大好きな美容師さんにヘアメイクをしてもらえたこと。
日本では(海外のブライダル環境については調べていないので、よくわかりません)、ある会場で結婚式・披露宴をやることに決めたら、ドレス・ヘアメイク・装花・引き出物・写真・etc…あれもこれも、その会場(もしくはプロデュース会社)の提携企業にオーダーするように"誘導"されます。つまり、Aという会場で結婚式をあげたら、提携のフラワーショップBでブーケをオーダーすると3万円也。でもそれは気に入らないので、別のフラワーショップCの5万円のブーケを使いたいとします。そうすると、"持ち込み料金"なるものが発生(例えば5万円)し、提携ショップなら3万円で済むところが、10万円かかってしまう、というわけ。これはけっこう痛いですよ。ドレスやメイクだと、場合によっては持ち込み料だけで10万円するところもあります。ひどい話です…って、もともとあまりこだわりのない人なら、全部1か所で決められるからむしろ楽チンなんですけどね。

でもヘアメイクってドレス同等に大事じゃありませんか?会場提携のスタイリストなんて、どんな人に当たるかわからないし、たった1回のリハーサル(ブライダルメイクは、事前にリハーサルをやります)で自分の好みを伝えられるとは限らない。リハであまりにも意思疎通ができず、ショックで泣き帰り、結局持ち込み料金を10万円払って自分の好きなスタイリストにやってもらったって人、いましたよ。私は完全にそういうものから解放されたフリーダム結婚パーティだったので、私のシュミを完全に理解した美容師さんに気兼ねなくお願いすることができたのでした。
花嫁姿になっていく過程って、短いながら、とても幸せで思い出に残る時間だと思います。その美容師さんのところにはもう何年も通っていて、もしかしたら友達よりも私の様々な事情(笑)について知ってるのでは?っていうくらい、ざっくばらんに色々な話をしてきました。そんな彼女とキャッキャ言いながらメイクと髪を仕上げてもらう時間は、本当に本当に楽しかった。そして、これまたここ数年の私の様々な事情(-_-)を共に喜び悲しんでくれていた親友のひとりが、美容室に私を迎えに来てくれたことも、実に貴重な"持ち込み料フリーオプション"だったと思います。そう、会場がライブハウスなのでファンシーな"花嫁控室"なんてものはなく、フツーに外部の美容室でヘアメイクをしてドレスを着て、タクシーで会場へ向わなければならなかったので、お迎えをお願いしたのです。花嫁姿ができあがった私を見た瞬間、(感動で?だよね?)「…!」と言葉を失った彼女の顔、お互いにあれもこれも、いろんなことが思い出されて、お互いに感極まってしまったあの短い時間は、パーティ以上に鮮烈に私の心に残っています。

こだわらない人にとっては本当にどうでもいいことだと思いますが、せっかくの結婚を祝うシーンなのだから、これから結婚式をやる人には、やりたいことがあるならば、なるべくたくさんのことを実現させてほしいと思います。でも今、日本の結婚式場でそれをやろうと思うと、オリジナル要素を入れれば入れるほどお金がかかってしまうという妙な構図になっているのが現実です。私のように、プランナーさんも何もない完全オリジナルパーティにするのも1つの案ですが、それはそれでものすごい大変なんですよね…(別途記載予定)。型通りにやると何百万円もかかってしまうジャパニーズ・ブライダル、もう少し何とかならないものかな、と思うのですが。ちなみに前述の"持ち込み料金"に関しては、実際に問題にもなっているようなので、これからはスタイルが変わっていくかもしれませんね。ブライダル産業の価格破壊も進んでるみたいだし。

MADE IN CHINAのウェディングドレス。

ドレスについては、今でも少し後悔が残っています。ウェディングドレス、それはヲトメの憧れ…。なぜそんなところで妥協をしたのか!?と言われそうですが、決して妥協をしたわけではありません。だって私は昔、ウェディングドレスショップで働いていたのですから。人のドレスを見てもついつい質やバランスをチェックしてしまうような人間なのですから。だから、どこか妥協をしてテキトーなドレスを選んだわけではないのです。。。
そもそも、ウェディングドレスを着る予定はありませんでした。というのも、結婚パーティーの会場が、いわゆる"ちゃんとした結婚式場"ではなく、いたって普通のライブハウスだったからです。案外見落とされがちなポイントですが、ウェディングドレスって会場の雰囲気とのマッチングがとても大事です。ライブハウスのステージで動き回ったりすることを考えたら、ウェディングドレスはやっぱりしっくりきません。それに、もし私がどうしても着たかったとしても、そもそも"ちゃんとしたウェディングドレス"をレンタルしたら、"ちゃんとした会場"でないと使わせてもらえないのです(ライブハウスで着ると言ったら試着さえさせてもらえない)。もちろん、数十万円出して購入すればどこで着ても自由ですが、前述のとおり会場にマッチしないし、買うつもりはなかったので。それで、ちょっといい感じの白いワンピースでも探そう、と思っていたのですが…無いんだな、そんな都合のいいものが。それで、困ったなと思って検索していたら、ネットで注文できて、一回着て終わりでも許せる価格の、ものすごーくシンプルなウェディングドレスを発見したんです。このドレスを買って、丈をぐんと短くしてもらえば、いかにもなウェディングドレスにはならず、ライブハウスパーティで着るには最適だ!と思いました。生地の質に期待できないことはわかっていましたが、会場が薄暗いライブハウスなので、問題ないと判断したのです。

果たして悪夢は、そのサイトの注文画面に書いてあった小さな文言から始まりました。「小物とボレロは別売りになります」
あぁ、ノースリーブが気になる人がボレロを追加したりするんだろうな、と思っていました。ところが、注文してからわかった事ですが、"ボレロ"の意味するところは、上半身の生地を覆っているレースの事だったのです。いやいやいやいや。レースはドレスの一部(というか、もはや存在意義)でしょ?レースがボレロなわけがねーーーだろーーー!と思い、クレームしましたよ。「"ボレロ"の定義は、丈の短い前開きの上着のことですよ。この書き方では絶対に誤解をまねくし、納得できません」とかって。でも結局そのクレームは受け入れられず、買いましたよ、その"ボレロ"とやらを。絶対ボレロじゃないけどね。だいたい、レースが無かったら私の上半身、ただの洗顔ネットじゃん!
このショップとは意思の疎通ができない…と不安感高まる中、試着用の仮縫いドレス(これは1万円くらいのオプション)が届いてみたら、おい、形が全然違うっつーの。これはランニングシャツですか?みたいな。襟ぐりが広くて浅いデザインのはずなんですけど、何ですか?これ。みたいな。それで、絵を描いて説明し、本縫いのドレスはよろしく頼むよ、と言ったのですが。
うん、結局、ランニングシャツ状態のまま本縫いのドレスが届いた。しかも、裾が汚れてる。ちょっとじゃなくて、けっこう派手に汚れてる。もうあまりにショックで、クレームする気にもならず、しばらくドレスに触れることができませんでした。この点は完全に私のミスですが、1週間以内だったら無料で直してもらえたんです。でももう見るのも嫌で、気づいたら1週間経っていました。そして着てみたら、なんか泣けちゃうくらいおかしい。だってほら、ランニングシャツだから。パーティまでもうあまり日もありません。送り返して直してもらう時間もありません。絶望的な気分になりながら、洋服のお直し屋さんに片っ端から電話をかけました。ドレスって、どこででも直してくれるワケじゃないんです。ようやくやってくれるというお店を見つけ、涙をこらえて出向きました。「これは…酷いですねぇ!」と言われましたよ。汚れだけでなく、縫製も酷かったんです。例えばこれ。レースの切れ端が出ちゃってる。

「直るかなぁ…いや、頑張って直します。だから元気を出してくださいね!」とか言われて、本当に涙が出そうでした。もうね、完全に私が悪いんですよ。ライブハウスだろうが、一生に一度(のはず)の花嫁衣装を、MADE IN CHINAのネット通販で買った私が。でも、日本の技術はすごかった。ランニングシャツがかなり改善され、何とか思った形に近づけてくれたのです。試着してみて、また涙が出そうになりました。結局、お直し代金がドレス代金と同じくらいかかりましたが、これで着られるならもう文句はありません。

「ドレスがあまりにも酷いの(TдT)」とあちこちで触れ回っておいたのが功を奏したのか、当日はみんなが「どこがダメなの、全然素敵だよ」「とてもかわいいし、nacciに似合っているよ」と褒めてくれました。それでも私は言いたい。どんなにライトなものでも、一生に一度(のはず)の花嫁衣装であるかぎりは、やはりショップで採寸して自分のスタイルに合うものを作るべきです。え?あたりまえ?そうですよね…。


※失敗ドレスを買った後に"blanco bianco"というショップを発見して、あ〜このショップに試着に行ってみたかったな〜、と思いました。このショップで売ってるような、ウェディングドレスっぽくないドレスが欲しかったんです。興味のある人は検索してみてください。

結婚に付随するあれこれについて

せっかく結婚して、結婚式とか新生活とかネタがいっぱいあるのにここには書かないの?と友人に言われたりするのですが、うっかり新婚ハイみたいな文章を並べてしまうと後々読んだときに気分が悪くなると思ったので、あえて1年間寝かせてみました(笑  …というのに加え、私は、結婚に付随するあれこれ(結婚式だの、指輪だの、新婚旅行だの)に対してものすごくネガティブな想いを抱いていた時期が長かったので、その気持ちと折り合いをつけるためにもちょっと時間が必要だったのです。比較的遅めの結婚なので、もうずっと前に結婚していった友人たちから「いつかnacciの結婚式に出るのが楽しみ♪」などとよく言われていたのですが、そのたびに「ごめん、私、結婚式とかやらないから」と頑なに言い続けていました。でもね、やりたかったんです、本当は。心の底ではね。いや、今でこそ"本当はやりたかった"というその時の気持ちを受け入れられるけど、当時は「私は本気でやりたくないの!」と思っていました。結婚式もやらない、指輪も要らない。何なら、周囲へのお知らせさえもしたくない、と。いろいろなことがあって、完全にひねくれて"こじらせて"いたんです。まさに、ケン・タナカと結婚しようとしていたエマ先生みたいに(←"glee"より)。
実際のところ、本来の私は、結婚に付随するあれこれについて人並み以上に憧れを抱く20代女子(当時)でした。披露宴をやりたい場所も2つくらい考えていたし、指輪もここで買いたいと決めていた店があったし、ドレスもこのショップから選びたい、なんてところまで考えていました。でもある時いろいろあって(妙齢女子、いろいろありますよね。)、そういった何もかもが嫌になってしまったのです。正に"かわいさ余って憎さ百倍"みたいな。100じゃないならもうゼロでいいわ!みたいな。そこへ重ねて、腹心の友(例のmarisolですが)の周囲にいたろくでもない男たちの行動が、私のその頑なな態度に拍車をかけました。結婚式で誓いの言葉やらを述べて、そのあと一ヶ月も経たないうちに浮気を試みる男。家では毎日律儀に結婚指輪をはめていて、毎朝出勤するたびに(律儀に)指輪を外す男。そういう男の愚痴を毎日のように聞かされていたら、「ふん、くだらない!あんなに大々的にやっといて、結婚式も結婚指輪もぜんぶ嘘っぱちかよ!」って思うようになるのも無理はないと思いませんか?…もちろんそういう人は全体のほんの一部で、「くだらない!」なんて言われてしまう真面目な結婚式や指輪にとっては、とばっちり以外の何モノでもないのですが、当時の私はとにかくそういう状態に陥っていたのです。
なので、結果として、結婚披露パーティをやろう!と素直に思えるような結婚ができたことは、私にとってはものすごいブレイクスルー(《進歩、前進、また一般にそれまで障壁となっていた事象の突破を意味する英単語》by wikipedia)であり、幸せなことだと言えます。
…ということで前置きが長くなりましたが、(無謀なほどぶっつけ本番だったけど)楽しかったパーティの思い出やら、(立ち直れないほど酷く仕上がったけど)みんなに褒めてもらえたドレスやらについて、追ってアップしていこうと思います。ちゃんちゃかちゃん。

その日のために。

延命治療のことを前にも書いたのだけど、ここのところまた、人の命について考える出来事が立て続けにあったので、再度ふれてみたい。ふれてみたいというか、伝えておきたいと思う、1人でも多くの人に。
ちょうど前回記事をアップした当時、救命救急の現場に携わる人から、こんな話を聞いた。「患者さんが緊急搬送されてくると、延命治療(気管内挿管)を施すかどうかをご家族に確認します。それをすると、意識が戻らなくなる(=いわゆる植物状態)可能性があることは充分に説明しますが、大抵『できることは全てやってください!助けてください!』と言われます。しかし、結果として、命は助かったものの昏睡状態が長期にわたると、最初は毎日病院へ来ていたご家族の足もだんだんと遠のき、『あんな状態になることは望んでなかった!』とか、『ちゃんと説明を受けなかった!』と言われてしまうことがあるんですよ」
…そんなこと言われたらやってられないだろうなぁ、と思いつつ、家族の気持もわからないでもない。ちなみに気管内挿管とは、自律呼吸が困難な患者の気管に口から直接チューブを入れる、あれのこと。病気が回復して抜管する場合はいいが、回復の見込みが無い患者に延命目的で挿管したら、医師はもうそれを抜くことはできない。苦しそうだからってうっかり抜いたら殺人罪に問われてしまう。だからこそ、挿管の前には家族にしっかりと説明するのだけれど…家族の緊急事態に、その説明を受けてしっかり考えることの出来る人が、どれくらいいるか。

説明をする側にとっても、"回復の見込み"というのが非常にやっかいで、YES/NOでは答えられない。「回復の見込みはありません。挿管して延命しても意識はもどりません」とは当然断言できない。「挿管して命をつないで、しばらくしたら意識が戻る可能性が…、ないとは言えません」なんて言われたら、普通は「じゃあやってください」となるだろう。

因みにうちの母の場合は、家族の同意がどうのこうのという状況ではなく緊急手術になってしまったので、病院についた時には挿管どころか手術まで終わっていた。ただ挿管以外にも心臓マッサージや昇圧剤など延命措置が色々あるので、それぞれについて、家族として判断を求められた。でもドクターの説明は、私の隣で聞いていた父の耳には全く入っていなかったと思う。多くの人はそうなるのが普通だろう。私のようにメモを取りながら客観的に説明を聞く人は、たぶんそんなに多くないはずだ。

日本の法律下では、家族がNOと言わなければ、医師は、どんなに回復の見込みが無くとも延命につとめなければいけない。挿管する。薬で血圧を上げる。肋骨が折れても心臓マッサージをする。"回復が望めない場合の延命措置"とその意味について、簡単にでもいいから一般にもっと知られていてもいいんじゃないかと思う。知識ゼロでその日、その場に臨むよりは、ずいぶんわかりやすく説明が聞けるはずだ。やみくもに「できることは全てやってくれ!」と丸投げしないで、ベストの判断が出来るよう考える助けにもなるだろう。例えば学校の保健体育の授業なんかで、応急処置と一緒にちょっとでも取り上げてもらえたらいいのにと思う。…でも医療費のことを考えると、ひょっとしたらここにも"大人の事情"が裏で幅を利かせてたりするんだろうか。だとしたら救いようがないのだけど、少なくとも普段から家族で話しあっておくことは有効な手段だと思う。