☆パリごはん

パリごはん

パリごはん

図書館でパラパラとめくって「なんだか美味しそう!」と思って借りてきた。雨宮塔子さんがパリの暮らしの中でさらっと作るごはんとか、マルシェで面白い食材を見つけたり…ってのを勝手に想像して手に取ったのだけど、それとは全然違ってた(-_-)
日本人のママ友のみなさんとの豪華なランチ、ディナー、パーティの様子が日記形式で綴られていて、これは全く私とは住む世界が違う人たちの話だわ〜、ふむふむ、と斜め読みで終わってしまった。しかし、一流パティシエが旦那様だと、こんなにも贅沢な暮らしが可能になるものなのね、そりゃすごいわと感心しつつ、ふと違和感を感じて検索したら、現在離婚調停中でいらっしゃるのですね…
「青木さんが雨宮さんの金遣いの荒さに愛想を尽かしたようです。」という週刊誌のモンクは全く信用できないけど、お金があり余ってるわけでもないのにこの本のような生活をしてたのだとしたら、うーん、無理もない。(でも、この本を書くためには、あの贅沢ライフにかかるお金も、必要経費だったかも?モトは取れているんじゃ…)
"チューボーですよ!"の頃の雨宮さんけっこう好きだったし、せっかくパリ生活も長いんだし、もっと気軽なパリごはんのエッセイが読みたいなぁ。高級デパートじゃなくて、その辺のマルシェで買ってきたもので作るサンドイッチとか、デザートとか。結婚のゆくえがどうであれ、これからの"気さくな"雨宮さんのパリライフに期待。でも、またセレブと再婚とかしちゃうんだろうな。

お皿の上から飛び出さんばかりのオマールが登場。
つけ合わせの帆立貝の上にはキャビアの粒がこんもり。
オマールのみっしり詰まった身に、キャビアを載せて食べる。
美味しゅうございます─。
(本文より)

強く惹かれていない人と桜を見ることについて


世の中の雰囲気は少しずつおかしくなっていっていますが、桜は今年も変わらずきれいに咲いていますね。今年の私は、近所の神社や寺を散策しつつ、もっぱらひとり花見を楽しんでおります。
さて、こういう季節になると、特に強く心惹かれているわけでもない(嫌いでもない)異性と2人でお花見に行くというシチュエーションがけっこう出てきますよね。え?ない?そうですか…。婚活時代のmarisolは、「婚活で出会った、嫌いじゃあないけど惚れてもいない人と夜桜を見に行くほど辛いことはない」って言ってましたよ。この時期に、例えば誰かとお食事を一緒にして、「帰りに桜でも見ていきませんか?」ってあるでしょうー?

"特に強く惹かれてはいない人"(表現に気を遣うなぁ)と桜を見に行くのがイヤな理由、それは、妙にロマンチックだから、だそうです。すごくわかるよ!特に強く惹かれてはいない人とロマンチックな雰囲気になることは、非常に避けたい事態なのです。(ロマンチックな雰囲気になりたくない相手とそもそもデートをするなという指摘は無用。妙齢の男女には色々あるのだ。)相手の男性から、「ここはちょっといい雰囲気にもっていかないと」的な妙ちくりんなギラギラ感が出ているのも、ものすごいキツい、と。だからといって、食事のあとに「桜見ていきませんか?」って言われたら、断るの難しいですよね?「桜の花粉症で〜」とか聞いたことないし、「桜、嫌いなんです」とかいうのもアレだし。「桜は好きな人と見たいんで」とか、もう言語道断ですよね?そういう訳で、お誘いいただいたのなら、桜を見に行くことになるわけですよ。男の人はそういうの、ないのかな?微妙な相手に「夜桜見たい♡」とか誘われたら、躊躇しないのかしら。

ご参考までに(誰へのだ?)、"特に強く惹かれてはいない人(←しつこい)"と桜デートをする時、ロマンチックな雰囲気になることを避けるためにmarisolがやってきたことといえば:1. 一定の距離を保って歩く 2. かたくなにコートのポケットに手を入れて歩く(手を繋ぎたくないから)だそうです。苦痛…。花見に誘った女性がコートのポケットに手を入れっぱなしだったら、それは脈ナシのサインかもしれません。と、いうか、そもそも、marisolのように(私もそうですが)ロマンチックさを重要視するタイプの人は、ロマンチックな雰囲気になりたくない相手とは、絶対にうまくいきませんよ。デート自体すべきではなかった。え、そんなこと誰でもわかってるって。チーン。

というか、marisolと花見をした男性たちも、もしかしたら単純に桜を見たかっただけで、別にそんな"ギラギラ感"なんて出してなかったかもしれない。あと、男女問わず、誰が隣にいようと純粋に桜を楽しめる人だってたくさんいる。いやむしろ、そちらの方がマジョリティではないだろうか…。だとしたら、「こいつ、隙あらば密着しようとしてるな!」と自動的に警戒していた marisolは、完全な自意識過剰女だったっていうことになってしまうんだけど…どうかなぁ。

はじめまして、お孫さんの嫁です


いま、ちょっと面白い作業をしています。"夫の母方の祖父"にあたる人が、60年ほど前に書き記した原稿(手書き)を、せっせとデータ化しているところ。原稿用紙はすっかり黄ばんで所々が脆くなっており、取り扱いに注意しないと粉々(!)になってしまいそう。その内容は、当のお祖父さんが1956年に北米大陸を旅した時の紀行文です。横浜から船で太平洋を渡り、パナマ運河を越えてはるかニューヨークへ。そこから北米大陸を西へ向って横断する…。今、ちょうど五大湖近辺の出来事について、ぱたぱたとキーボードで打ち込んでいるところです。


私はもちろんのこと、夫も生まれる前にこのお祖父さんは亡くなっているので、どんな人なのかも知りません。でも、手書きの原稿を1ページ1ページめくりながら、文字を読み、写し…という作業をしていると、不思議と、お祖父さんと向かい合って話を聞いているような、そんな感覚に襲われます。手書きの文字というものには、そういう力があるのかもしれません。文字にはその人の性格も表れるというしね。
私はもともと読むことが好きで、読んでいるとスッとその"別世界"に降りていけるので、こういう物も読みはじめると一瞬で向こうの世界に行ってしまいます。タイプをミスるといけないので、あまり入り込みすぎてはいけないのだけれど、目は原稿の文字を追いながら、手はキーボードを叩きながら、自分は完全に1950年代のアメリカに居るのです。そのとき私の視線は、常にお祖父さんが見ているものに向っており、私の意識は、常にお祖父さんの傍らにあります。とても楽しく、貴重な体験をさせてもらっています。

"共通項"を見つけると、人は相手に親しみを感じるものですが、私もやはりこれを読みながら勝手にお祖父さんと自分の間に共通項を見つけて、「ですよね〜」なんて心の中で相槌を打ったりしています。彼は相当な船オタクだったようで、とても熱心に船について書き記しているのですが、その中でもとりわけ船の名前に関心が深かったようです。私も船名ってすごく好きなんですよね〜。船に関わる仕事をしていた時、「nacciはよくそんなに船の名前を覚えてられるね」と同僚に言われたものですが、興味があるから自然と覚えちゃうのです(私の場合は船にかぎらず"名前"に興味があるだけですが)。名前がつくとそれぞれの船に個性が生まれて、それが世界を航行してまた日本の港に戻ってくるっていうのがすごくロマンチックだな〜と思っていました。そんなことをお祖父さんも書いていて、ついつい嬉しくなってしまいます。あと、私もアイスクリームが大好きなのですが、お祖父さんもかなりアイスに目がないようで、文中でしょっちゅう食べています。今まだ原稿全体の半分も終ってないのですが、ここまでのところで5、6回は食べてる。しかも、「◯◯で、アイスクリームをたべた。」って書いた後にわざわざ「"とてもうまい"アイスクリーム」って書き足したりしてて、なみなみならぬアイスへの愛がうかがえるのです。私もこの作業をしながら、何度も冷蔵庫へ足を運んでしまいました。60年前のお祖父さんの言葉に突き動かされて、現在の私がアイスクリームを食べてるというのも、何とも感慨深いもので。

この旅行記、たぶんお祖父さんの文才もあると思うのですが、身内でなくとも面白い内容です。寄港地であちこち見物してたらウッカリ船が出てしまったとか、パスポートをどこにしまったかすぐ忘れるとか、「えー!」の連続。いつか、みんなに読んでもらえるようなものに仕上がるといいなと思いながら、今日もぱたぱたと打ち込んでいます。

だから人生はシンプルにいこう

全然書いてないうちに3月も終わりかー。やれやれ。
春のお彼岸も終ってしまいましたが、みなさんお墓参りには行きましたか?うちは、未だに母の納骨を済ませていないので、母の墓標はありません。でも、父が"今年はクルマを買い替えて、新車で京都まで納骨に行くんだ"と言っていました。もうすぐ3年。父にとってもそろそろひと区切り…なんて全く思えないのはわかっているけど、京都まで出かけて納骨するか、という気分になっているのは、私からするととても嬉しいことです。

そんな父がこの2年ほど、しきりに取り組んでいるのが「終活」。所有物は最小限に減らし、財産関係はシンプルに、かつ自分が死んだ後は残された人にわかりやすいようにしておくこと。他人に言うと「そんな、縁起でもない!」とか言われちゃうんですが、父と私にとっては、とっても大切なことなのです。母の突然の死を通じて、私達は、身の回りはとにかくシンプルにしておかなければいけないということを痛感しました。母が大切にとっておいた沢山のモノたちが(母親というのは概して沢山のモノをとっておく傾向がある)、一瞬にして不要物となるという現場に直面し、それらをザクザク処分していくというのは、とんでもない虚無感と苦痛を伴う作業でした。母の持ち物を片付けるという作業を通して、「モノはあの世へ持っていけない」ということが、文字通り…というかそれ以上に腑に落ちて、自分の身の回り品についても、すーっと執着がなくなっていったのです。たくさんの写真とか、使わないけど高かった服やバッグとか、CDのジャケットに傷をつけないように気を遣っていたこととか…なんか、どうでもよくなって。もちろん、モノは大切に使うべきだし、写真やパンフレット類を全部捨てる必要はないんだけど、"執着"がなくなって。ある一定以上のものは、処分していいなと思えるようになりました。この3年で、うちの実家にあるモノは半分以下に減ったはずです。すっきりして気持がいい。たぶんこの悟り感が、断捨離ってやつのホントのところなんだと思います。これは体験しないときっとわからないことですが(←この言い方には上から目線感があってとっても苦手なんだけど…)、自分が死んだ時、誰かにこんな大変な想いをさせるわけにはいかない、と思ったのも、父や私が「終活、終活」と言う所以です。思い出がつまったものほど、残された者は捨てづらいです。それでも捨てなければならない。だったら最初から、思い出は"とっておき"のものだけを残しておけばいいと思うのです。

半分以下に減ったとはいえ、まだまだモノの多い実家。30年以上住んでいるのだから当然といえば当然ですが。父も休みの度に、そして私も帰省する度に、あれこれ捨てまくっています。母に申し訳ない気もしますが、モノは所詮モノ。いつかはなくなります。大事なものは、ちゃんと私達の中に残っているから大丈夫。たぶん今、プランターで花を育ててる私を上から見て、母は「へぇ〜、あんたにそんな趣味、あったの!」って言っていると思います。でもこれは間違いなく、お母さんから受け継いだものでしょう?ああ、あと「皿のウラをちゃんと洗いなさいよ!」とか夫に言われるところも、間違いなくお母さん、あなたの血ですから!へへへ。

取ったどー!〜割と熾烈な歯列矯正、ラストスパート〜

4ヶ月もブログを書いていないことにも触れず、新年の挨拶もしていませんが、とりあえず突っ走る人。
2012年の終わりに4本の抜歯を行い、2013年頭よりブラケット装着をしていた私の歯ですが、2014年の終わりにとうとうブラケットが外れましたー!わーい!2年間歯にくっついていた金属を外したときの悪臭が未だに記憶に新しいですが、とりあえず嬉しくて嬉しくて、しばらく無駄に笑顔を振りまいておりました。しかし歯列矯正はブラケットを外して終わりではありません。ここからある意味とっても肝心な「保定期間」に入ります。無理に力をかけて動いた歯は、ブラケットが外れると元に戻ろうとしますので、一定期間はリテーナーという器具で保定して落ち着かせなければいけません。そのリテーナーがこれ。取り外し可能な、言ってみれば「歯のついてない入れ歯」です。これを、まずは食事タイム以外は装着し続け、半年ほどかけてだんだん装着時間を短くしていく。
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これが…装着するとしゃべりにくいことこの上なし。2ヶ月ほど経った今、ようやく慣れて「比較的ふつう」に発音できるようになりましたが、とにかく「き」が発音できない。「パン焼き機(パンヤケケ)」とか「樹木希林(ケケケレン)」とかになっちゃうんです。家の人は大爆笑してましたが、本人は絶望的な気持ちでしたよ。。。会社員生活をしていた頃だったら、これはかなり厳しかったなぁと思います。大人の矯正、流行っているし、歯並びが気になる人にはおすすめしたいですが、このタイプのリテーナーを使う場合は時期をよく考えてくださいね、と、この場を使ってアドバイスしておきます。

ところでブラケットが外れてから楽しみにしていたこと。
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冷麺を食すこと!であります。これ、矯正したことのある人にしかわからないと思いますが、ブラケットつけて冷麺食べると、時と場合によっては、死にます。。。というのも、ラーメンとか普通の麺類って、みなさん気付かずやってらっしゃると思いますが、舌と歯の裏と上顎を使って長い麺を短く切断してるはずなんです。でも冷麺はかなり弾力があるので、歯で噛み切ってませんか?ブラケットがついてるとそれがうまくできず、長いまま喉の奥に流れていったりするんですよー。そうするとあなた、おぇぇぇぇぇーとなるわけで。知らずにうっかり食べてしまったとき、もう、目が白黒しちゃいましたよ。手で引っ張って出そうかと思ったもんね。
そんなわけで、新年早速、楽しみにしていた冷麺をいただきました。寒かったので、あまり美味しく感じませんでした。以上!

☆いつかあなたを忘れる日まで

いつかあなたを忘れる日まで (新潮文庫)

いつかあなたを忘れる日まで (新潮文庫)

「ダメ男の図鑑みたいな本」と聞いて、条件反射で読んでしまった一冊。わたくし、ダメ男についてはちょっとした権威と言われてますからねー。目次をざっと見ると、・優柔不断な男、・浮気性な男、・嘘をつく男、・マザコン男、・俺について来い男、・手の早い男、・別れ下手の男 などなど。
この本自体、読み物としてはとくに心惹かれるものではなかったけれど、ひとつ自分で気づいたこと…それは−"ダメ男"をつくるのは、女だったんだ!ということ。ダメ男を「ダメ」と形容するのって、その男を恋愛対象としている女性(じゃない場合もあるが)ですよね。それ以外の人、つまり家族や友人にとっては、世間のいわゆる"ダメ男"たちって、むしろけっこういいヤツだったりしませんか?
目の前にいるのがダメ男だったら、まともな…ちゃんとした…分別のある…女性は、そこでスパッと関係を終わらせるんだと思う。それができずに、文句を言いながらもダラダラ付き合ってしまう女性がいるから、その目の前の男が「ダメ男」になってしまうのですよー。求める人がいるから、なくならない。危険なドラッグと同じ。ペットの違法販売と同じ。

ダメ男をつくるのは、ダメ女。
30代も後半になってようやくそれに気づいた私は…いやもう、かなりのダメ女。

☆季節風 秋

季節風 秋 (文春文庫)

季節風 秋 (文春文庫)

「泣けるよー!」とすすめられた本を前にすると、どうも身構えてしまいます。どうせ泣かす気マンマンの文章なんでしょ?って。自分には自分だけの感動ポイントがあるわけで、なにか本を読んでいてたまたまそういうものに出会ったときにすーっと涙が出るのが気持ち良いのです。だから最初から"家族愛!"とかそういうのがわかっちゃってる本はもう、なかなか読む気になれません。そういうのはわざわざ本で読まなくてもいいし、あえて言うなら「本が苦手で・・・でもこれから読書をはじめてみたいんです!」って人にはいいかもね、みたいな。そういう、かわいくないことを思ってしまいます。

でも、読んでみました。本屋で「感動!」とか書いてあっても手には取らないけど、仲の良い友人にすすめられた本は、素直に読んでみる方です。ご縁ですからね。

・・・。
泣くでしょーーーこれは(笑)。
短編集なので、「はいはい、これは結構です」っていうのもあるけれど、自分にひっかかってくるストーリーがどこかにきっとあります。基本、親と子が出てくる話なんだけど、どういう形であれ親なくしてこの世に存在している人はいないので、全部読めばだいたいどこかで自分とリンクする何かが出てきて涙がでます。

ささっと読めてしまうので、秋の夜長に温かい飲み物でも片手になにか読みたい時、もしくは「いま泣きたい!」時に、おすすめかもしれません。