だから人生はシンプルにいこう

全然書いてないうちに3月も終わりかー。やれやれ。
春のお彼岸も終ってしまいましたが、みなさんお墓参りには行きましたか?うちは、未だに母の納骨を済ませていないので、母の墓標はありません。でも、父が"今年はクルマを買い替えて、新車で京都まで納骨に行くんだ"と言っていました。もうすぐ3年。父にとってもそろそろひと区切り…なんて全く思えないのはわかっているけど、京都まで出かけて納骨するか、という気分になっているのは、私からするととても嬉しいことです。

そんな父がこの2年ほど、しきりに取り組んでいるのが「終活」。所有物は最小限に減らし、財産関係はシンプルに、かつ自分が死んだ後は残された人にわかりやすいようにしておくこと。他人に言うと「そんな、縁起でもない!」とか言われちゃうんですが、父と私にとっては、とっても大切なことなのです。母の突然の死を通じて、私達は、身の回りはとにかくシンプルにしておかなければいけないということを痛感しました。母が大切にとっておいた沢山のモノたちが(母親というのは概して沢山のモノをとっておく傾向がある)、一瞬にして不要物となるという現場に直面し、それらをザクザク処分していくというのは、とんでもない虚無感と苦痛を伴う作業でした。母の持ち物を片付けるという作業を通して、「モノはあの世へ持っていけない」ということが、文字通り…というかそれ以上に腑に落ちて、自分の身の回り品についても、すーっと執着がなくなっていったのです。たくさんの写真とか、使わないけど高かった服やバッグとか、CDのジャケットに傷をつけないように気を遣っていたこととか…なんか、どうでもよくなって。もちろん、モノは大切に使うべきだし、写真やパンフレット類を全部捨てる必要はないんだけど、"執着"がなくなって。ある一定以上のものは、処分していいなと思えるようになりました。この3年で、うちの実家にあるモノは半分以下に減ったはずです。すっきりして気持がいい。たぶんこの悟り感が、断捨離ってやつのホントのところなんだと思います。これは体験しないときっとわからないことですが(←この言い方には上から目線感があってとっても苦手なんだけど…)、自分が死んだ時、誰かにこんな大変な想いをさせるわけにはいかない、と思ったのも、父や私が「終活、終活」と言う所以です。思い出がつまったものほど、残された者は捨てづらいです。それでも捨てなければならない。だったら最初から、思い出は"とっておき"のものだけを残しておけばいいと思うのです。

半分以下に減ったとはいえ、まだまだモノの多い実家。30年以上住んでいるのだから当然といえば当然ですが。父も休みの度に、そして私も帰省する度に、あれこれ捨てまくっています。母に申し訳ない気もしますが、モノは所詮モノ。いつかはなくなります。大事なものは、ちゃんと私達の中に残っているから大丈夫。たぶん今、プランターで花を育ててる私を上から見て、母は「へぇ〜、あんたにそんな趣味、あったの!」って言っていると思います。でもこれは間違いなく、お母さんから受け継いだものでしょう?ああ、あと「皿のウラをちゃんと洗いなさいよ!」とか夫に言われるところも、間違いなくお母さん、あなたの血ですから!へへへ。