村上さんのところ


「一般から広く募集した質問・相談に、村上春樹さんが返事を書くというやりとりを期間限定で公開するサイト」"村上さんのところ"が、もうすぐ終了します。数ヶ月にわたって本当に楽しませていただきました。かく言うわたくしも、質問を取り上げていただきましたよ〜ぱちぱち。ま、それは実にクダラナイ内容のものだったので、ここには載せませんけども。
私はおそらく全ての投稿に目を通したと思うのですが、その中で最も自分のハートにぐっときたものについて書いておきたいと思います。
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村上春樹氏の『アンダーグラウンド』は、地下鉄サリン事件の関係者へのインタビューに基づくノンフィクション。投稿者の女性は、その本に登場する1人の地下鉄駅員が、「自分はサリン事件の被害者ではなく、体験者だと思うようにしている」と述べたことについて、自分自身に起きた"不運な体験"を織り交ぜて村上氏に質問を投げかけた。

自分を被害者だと強く思っていた時期は、世を恨み、相手を恨み、卑屈になって、人も離れていきました(なんで自分ばっかり、とその頃は思っていたのですが、実際には、自分ばっかりではなくて、みんないろいろあるんですよね)。そのようにして自滅していくのかな、と。なんだかうまく言えなくて、すみません。相手も悪いところがあるし、自分も悪いところがあったな、と考えられるようになってから、ちょっとずつ元気になっていきました。村上さんは、その駅員さんはなぜ被害者ではなく、体験者だと考えるようにしていたのだと思いますか。

村上氏の回答がこちら。

被害者というのは一般的にいえば、「自分には何の責任もないのに、たまたま災難が降りかかってきた」という人のことです。だから「どうしてこの私に?」という疑問が先に立ってしまいます。それで深く混乱し、傷ついてしまうこともあります。でもその駅員さんは自分を「被害者ではなく体験者」と見なすことによって、「自分はこの世界に生きているという責任を、たまたま自分なりに分担したのだ」という風に、いわば前向きにお考えになろうとしたのでしょう。僕はそのように解釈しています。それは「災難が降りかかってきた。ひどい目にあった」と受動的に捉えるか、「心ならずもではあるが、自分が災難を引き受けることになった」と能動的に捉えるかの違いだと思います。

私はこれを読んだとき、深呼吸をして目を閉じ、そのことばを深く味わった。それは、私の人生への向き合い方に、とてもよく似ていたから。私はずいぶん前から、「自分にふりかかる出来事には、必ず自分にも責任の一端がある」と考えるようにしている。それは、なにか"理不尽な目"に遭ったとき、「自分は全く関係ないのに、◯◯のせいでこうなった!」とは思わず、その一部は自分の責任だとして受け入れる、ということだ。これを半ば宗教的といってもいいくらいに心の軸足としている。以前は「そうは言っても、果たして自分の家族や友人が通り魔に刺されたりしたら、そんな心境でいられるだろうか? 」と自信がなかった。しかし結果として、「なんで私がこんな目に遭わなければいけないの…」という経験をいくつか経た今となっては、自信を持って言える。やっぱり、私の世界で起きる出来事には、すべて私にも責任があるのだ、と。なんで? と聞かれても困る。自分の様々な経験を通じて、いろいろな本を読んで、最もしっくりきた答えがそれだったというだけだ。身内が事故に遭ったときも、一貫して「加害者を恨むのはやめよう」という態度でいた。それは泣き寝入りをしたという意味ではなく、感情にまかせて自分を失ったりせず、自分の所属する世界で起きた出来事として受け止め、冷静に対応したということだ。「そんな心境でいられるなんて、えらいねー」と言う人もいたし、「なんと冷血なヤツなのか」と思った人もいたと思う。「我慢しなくていい」と言ってくれた人もいた。でも、人より偉いわけでも冷たいわけでもなく、恨みや悲しみを飲み込んで我慢したわけでもない(実際、十分すぎるほど悲しんだし、涙も流した)。自分にふりかかる出来事には、必ず自分にも責任の一端があるという前提で行動した。それだけだ。
世の中で起きているいろいろな問題についても、同じことだと考えている。わかりやすいところで言うと、たとえば原発についてなにか語るなら、まずは、自分も原発を持ってしまったこの世界の一部であるという意識をもつこと。「原発なんて自分の知らないうちに勝手にできていた」という無責任なことは、言わない。自分の属する世界で起きていることは、すべて、自分にも責任があるのだ。そういう風に考えると、いろいろなことに対して、比較的冷静に、客観的に対処できるようになってくる(ような気がしている)。

人生には、ひどいことがいろいろと起きるけれど、そういう経験は実にいろいろなことを教えてくれる。「被害者ではなく、体験者」という姿勢で生きることは、自分にとっても、人類にとっても、地球にとっても、なかなか悪くないことである、と私は思っている。