延命治療と臓器提供のこと

重い!!!こんなしょうもないブログにこんな重いテーマを書いたら、画面がフリーズしそうです。でも書かなくちゃ。母親を亡くしたのち、「私の想い」として親しい人には直接伝えてきたけど、なるべくたくさんの人に、いちどじっくり考えてみてほしいことなのです。

延命治療を望むか?脳死状態での臓器提供を望むか?これらのことについて、以前は、「自分がどうしたいのか」という意志が最も重要だと思ってきました。というか、自分がこうしたいのだ!という確固たる意志があれば、それでいいと思ってきました。でも母親の一件でこれらのことに直面して初めて、「自分の意志」と「それを受け止める人」(家族、親戚、パートナーなど)の気持ちが折り合わなければ、せっかくの意思も意味がないと気づいたのです。大事なのは、自分の希望について、「それを受け止める人」と話し合っておくこと―。


たとえば、「延命治療は絶対にしないで」と宣言することは簡単です。むしろ、そう思う人の方が多いのでは?たくさんの機械につながれて苦しみながら生きている誰かの姿を目の当たりにしたことがあれば、そう考えるのも当然かも。ちなみにここでいう「延命治療」というのは、自発呼吸ができないとか、自力で血圧の維持ができない等、何の治療もしなければ死んでしまう状態の人を「生かすため」に施す治療のことです。患者や家族が拒否をしない限り、医師は出来る限りこれらの治療をする義務があります。
さて、あなたの大切な人が「延命治療はやめてね」と言っていたとして、その人が事故などで突然意識不明になったとして、いざ「この薬を投与しないと、あとはもう血圧が下がるばかりです」という状態になった時、「本人がやめてほしいと言ってたから…」と、その意思を素直に即座に尊重することができますか?目の前に横たわる大切な人は、まるで眠っているかのようで、身体も温かいのに、自分の指示ひとつであっという間にその体が冷たくなってしまうとわかっていて、「もう治療は結構です」と言えますか?ものすごく辛い判断です。うちの母の場合は、本人が「延命治療断固拒否!!!」の姿勢を普段から貫いていたこと+ドクターの言葉 に従って、一つ一つの決断をしていきました。ドクターは最後の最後までできることをしなければならないので、家族が拒否しないと、たとえ肋骨が折れてしまうとわかっていても心臓マッサージをしなければいけません。身体がむくむとわかっていても、薬を投与しなければいけません。だからそういう一つ一つに関して、家族で相談をしながら、決めていきました。
延命治療にも色々なパターンがあります。患者と話ができる状態もあれば、全く話せない場合もあるでしょう。いろんな場面を想定して、自分はどうしたいのか・看病する側としてどう思うか、両方の立場になって(←これが大事!)話し合っておくだけでも、「その時」の決断の助けになると思うのです。


また、臓器提供の意思に関しては、より一層「見送る側」としての気持ちが大切になります。本人が「脳死状態になったら臓器は提供して」と言っていて、それを知っていたとしても、その場になったら気持ちが揺らぐのは当然です。単純に「やっぱり、本人がどう言っていたからって、大切な人の身体にメスを入れてほしくない」という素直な感情が生まれるかもしれません。「自分は提供したい/したくない」だけではなく、見送る立場としての「提供したい/したくない」を考え、話し合うことがとても大事だと思いました。また、自分が「提供しない」と思っていても、臓器移植をしなければ助からないような知人ができたりすれば、それで意見が変わったりするかもしれません。1年に一回くらい、お互いの意思をアップデートできるといいかもしれませんね。
私自身は、今回の事で自分の意思が180°変わってしまいました。デリケートな案件なので結論をブログ上に書くことができませんが、会ってお話する機会のある人とはぜひ意見の交換をしたいところです。臓器の提供に関しては、「したい」「したくない」「させたくない」以前に、考えなければならないことがあるんだわ〜、と痛感しました。これも、デリケートissueなのでここには書けないのですが、臓器提供について小一時間勉強すれば、だいたいの人は同じ問題に行き当たるのではないでしょうか。。とにかく、この世界に臓器の移植というシステムが存在する以上は、ある程度勉強しておくに越したことはありません。提供するかしないか、だけの問題ではありません。(歯切れが悪くてすみません。でもデリケートなもんで、、、)


といったあれこれを、「元気なうち」に話し合ってもらいたいな〜、と思います。ひとたび病気になってからでは、縁起が悪くてそんな話できなくなっちゃいますからね。元気なうちからそんな話題したくない!という気持ちもわからなくはないですが、人間、いつどうなるかわかりません。それに、死というものにきちんと向き合うことで、生き方も変わってくると思います。死は、生の反対にあるものじゃなくて、生きていることの一部だから。(あ、ちょっとカッコよく終われた。)

重い話題はこれで終わり。明日からまた、しょーもないBarに戻ります。