☆セイジ

セイジ

セイジ

言わずもがな、伊勢谷「カントク」で映画化された「セイジ -陸の魚-」の原作本です。映画を観る前にレビューを見たら、「背景説明がなさすぎ。先に小説を読んでいないと意味がわからない」「自己満足。独りよがりな作品。」というネガティブなものがすごく多かった。それでついうっかり、映画を観る前に小説を手に取ってしまったという訳。結果としては、レビューなど気にせずにさっさと映画を観ればよかった。(まだ観てないけど。)今となっては、小説を読まない新鮮な気持ちで「伊勢谷監督」の映像世界に飛び込んでみたかったな〜、と思ったり。もう遅いけど。

というわけで小説の感想。
映画のサブタイトルになっている「陸の魚」というのは、主人公のセイジ(のような人たち)のことだ。「その中で生きていても、結局死んでしまうしかないような世界に生きている人たち」とでも言いかえられるだろうか。きっと10年くらい前の私が読んでいたら、すごく敏感に反応しただろうし、涙の一粒もこぼしながら読んだかもしれない。今は?今の私からは、涙がこぼれることはない。ここに書いてあることは、すでに自分の中に内包されていて、いまさら驚くこともなければ、心が敏感に震えることもないから。いい意味で。

本の中に、印象的なエピソードがある。山から下りてきて畑の作物を食い荒らすイノシシを、農家の人が撃ち殺す。それに対し、「かわいそうなイノシシを救いましょう!」と署名を求める人が現れる。そんな人に、セイジが言い放つセリフ。「このままじゃ良くないと思うなら、アンタが首でもくくって一人でも人間の数を減らしせばいい。」 それが、セイジの「陸の魚」たる所以。

それで、思い出した。あるとき、炊き出しボランティアをしに行った知人が、「せっかく炊き出しに行ったのに、ホームレスにケチをつけられた。少しでも助けになればと思ったのに」と嘆いていた。「そんなんだったら、ボランティアなんかやるな。っていうか、いっぺんホームレスになってこればいい。あなたは、自分とホームレスの人間は全く別物だと思ってるけど、そこに境目は無い!それが理解できないなら、ボランティアなんてやっても意味がない!」と(言えなかったけど)思った自分を、この本を読んでちょこっとだけ思い出した。私が、おそらく最も「陸の魚」に共感できた頃の話。

今はそうやってカリカリするところからは外に出て、眺めていられる。楽なようでいて、そうするにはむしろ、ちょっとだけ強さが必要だ。私は小説の中のセイジより、少しだけ、強くなれてるのかもしれない。陸の魚が生きていくのには、その強さが、ある意味「鈍感になる強さ」が、必要なんだ。