スキップ・ビート to 南米大陸!【プロローグ】

(注:卒論並に長い上にオチもなく、ただの自叙伝になってしまったので、あしからず。。)




長年憧れ続けてきた南米大陸に、ようやくいま、私は向かおうとしている。中南米に恋い焦がれ始めたのは、いったい何年前のことだったろう。おもえば中南米は、ずっとあちら側から私の扉をノックし続けていたように思う。私の方から積極的に興味を持ったわけではないのに、中南米の方が私をずっと呼び続けていた、と、そう思う。


中南米との出会い】
私が初めて南米に触れたのは、18歳、高校3年生の時だ。課題で、各々割り振られた国の観光マップを作る…というようなものがあった。自分で大使館などにコンタクトをとり、資料を集めてみんなの前で発表する。当時、完全にヨーロッパかぶれだった私は、イギリスの担当になれるよう切望していた…のだが、そんな願いもむなしく、割り振られた国はブラジルだった。仕方なく、ブラジルについて色々と調べる事となった、それが私と南米とのファーストコンタクトだ。

ブラジルという国に興味が無いなりにも、色々な事を調べた記憶がある。今でもその辺の人よりはブラジルの地名には詳しいはずだ。しかし、この作業が「ブラジルに行ってみたい」というような気持ちを生み出す事もなく、私の心はヨーロッパに傾いたままだった。


【ブラポル語との出会い】
その後、大学生になった私は、第2外国語でブラジルポルトガル語を選択することとなる。しかし、それは高校時代の課題の流れでもなければ、改めてブラジルという国に興味を持ったわけでもない。当時始まったばかりのJリーグでにわかミーハーサッカーファンとなった私が、単に「とにかくサッカーにつながる言語」としてブラポル語を選択したにすぎない。しかも「ポルトガル語がわかれば、何らかの形でサッカー選手と触れ合えるのでは」というようなショーモナイ下心があったことは疑いようのない事実。なんと無鉄砲で夢見がちなことか。

ブラポル語の成績は常にA+だったが(←自慢です。)、後々スペイン語に対して感じる事となる楽しさや高揚感といったものを見いだす事もなく、履修期間の終了と共にブラポル語への興味も急速に失せていった。


イングランドでの出会い】
こうして私は、呼びかけてくるラテンの神様にそっぽを向いたまま、初めての海外生活を体験することになる。
憧れのイングランド。わずか40日間の滞在は、その後の私に大きなインパクトを残すものとなった。そしてここでも、中南米が私の扉を激しくノックする音が、聞こえていた(のに気づかぬ私)…。

まずはホームステイ先でルームメイトとなった女の子がアルゼンチン人だった。アルゼンチン…、この時点では、ただもう「遠い国」というイメージしかない。この時、アルゼンチンを中心に、南米の学生たちが集団で私と同じ語学学校へ英語を学びにきていた。
この流れでいくと、大方その南米人の誰かに惚れでもしたんだろうと推測されそうだが、、、違います。
私が好きになったのは(←結局好きになった)スペイン人のエロイ君(名前に他意はありません)。このエロイが仲良くしていたのが、アルゼンチン人。。というわけで、私はエロイと一緒にいたいがために、四六時中アルゼンチン人達と過ごす事になったわけで。

ここで私は、生まれて初めてスペイン語という言語に接する事になる。それまで私が知っていたスペイン語は、ジャポニカ学習帳の表紙裏(世界の言葉でこんにちは!)に書いてあった「ブエナスタルデス」だけだった。
アルゼンチン人が教えてくれた、始めてのスペイン語は「Mi nombre es nacci」(私の名前はnacciです)。その他はここに書けないようなxxワードばかりなので割愛するが、この滞在中に私がたくさんのスペイン語を覚えたかといえば、答えはノー。スペイン人が好きだったはずなのになぜ?と問われればそこには明確な答えがある。エロイの出身地はバルセロナカタロニア語という母国語を持つバルセロナ人にとって、「スペイン語」とは、一種 忌むべき歴史の1ページそのものなのだ。それを毎日こんこんとエロイに説明されれば、スペイン語などに愛着の湧くはずがない(単純すぎる…。)。そんなわけで、40日間アルゼンチン人とつるんでいた割に、またしても私は中南米の、そしてスペイン語の魅力に気づかないまま、ロンドンを後にする。


中南米担当】
時は流れ1999年。私は商社へ就職し、ラテンの神様はついに最後の手を下す。全世界をくまなく網羅する海外営業部署の中、私はピンポイントで中南米を担当するグループに配属されたのだ。中南米相手に毎日仕事をすれば、当然愛着も湧いてくる。が、それだけではなく、中南米という地域は、一部の人にとっては「なんだか惹かれてしょうがない」土地であるらしい。職場には、中南米の担当を一度は離れても「やっぱりラテン大好き」な人々が多くいた。そして私自身がその例に漏れず、「なんか惹かれてしょうがない」人になっていったのだ。
また、時を同じくして、親友の1人であるyukissが突然「グアテマラに留学する」と言って旅立ってしまった。yukissはこの後から今にいたるまで、ラテン文化を共有できる数少ない大切な友人となっている。yukissに限らず、この頃から、不思議と中南米につながる人脈が増えていったように思う。
こうして、ようやく私は、中南米との不思議な縁を深く意識するようになっていった。


スペイン語との出会い】
その後、私がスペイン語に触れるようになるにはしばらくの時を要する。
中南米の仕事を辞めた後の事。私はある時、「どうにもならないある想い」を抱え込んでしまう事になる。今思えば大した事ではないのだが、20代後半の(今から見れば)青臭い時代には、ひとりでは受け止めきれないような出来事だったのだ。
とにかく、自分の中に抑え込んでおけない程のエネルギーをどこかへ差し向けなければ、どうにかなってしまいそうだった。そんな私が選んだのが、スペイン語の習得だった。
ひとつ動詞の活用を覚えるだけで、救われるような、幸せな気持ちになった。高校の時いつも最高評価だったフランス語(自慢です)も、大学の時いつもA+だったブラポル語も、今となっては何も身についていない。なのに独りでラジオ講座を聞いただけのスペイン語が、結局一番身についている。心の底から惹かれる、というのはこういうことなのだ、と思う。


【ラテンの神様へ】
その後、ラテンの神様に導かれるように、私は再び中南米地域の仕事に就く事となり、前にも増して深く深くラテンな人々と付き合ってきた。ひとつひとつの仕事に思い出があるし、誇りすら感じられるような事も、やらせていただいた。
やっぱり中南米が大好きだ。ここで知り合った人たちとの絆も、ここで出会った音楽も、もう私にとっては一生モノの宝ばかりだ。


2010年、今度は私の方から、ついに中南米の扉を開く!
その第一歩が素晴らしきものとなるよう、いま、ラテンの神様に心から願いたい。
¡A Dios le pido!



☆最後まで読んで下さった奇特な方へ

南米からも、時間があれば(間違いなくあるんだけど)アップします。お楽しみに。